グリーンペイント スタッフのブログ

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2017年01月

こんにちは寺沢です!


冬期の関東出張中は、なにぶん家族もいないので

日曜日になるといろいろと関東観光を楽しんでおります!


候補地選定は難航しましたが漠然と東京の東の方がいいかな~?と

墨田区両国は5~6年前にマンション修繕工事の現場代理人をしていた時※冬期のみ限定です

我らが北海道日本ハムファイターズの鎌ケ谷球場がある鎌ケ谷市から

4カ月ほど通っていて、総武線の両国駅で降りると相撲とりの力士らしき髪型を

している人が歩いていたりと、東京・・・いや、江戸?っていうのでしょうか

そんな雰囲気が漂っている町でした。
※江戸東京博物館が近くにあったり地下鉄大江戸線の駅があったり…強引ですが江戸って感じで^^;

代理人をしているときに仕事が詰まってきて帰るのが面倒な時間になると

現場事務所に寝泊まりして、早朝に近くの江戸遊というスーパー銭湯へ行くのですが
                          
いるんですよねそこにも相撲とりが、でかくて長髪なのですぐにわかります^^
この時はまだ建設中のスカイツリーでした

墨田区のお隣、江戸川区にも4~5カ月住んでいたことがあり

東京の下町というのでしょうかあの辺りは、古い銭湯や

店頭販売しかしていない焼鳥屋さんとか、あの雰囲気好きですね~


そんな思い入れのある場所へ久しぶりにいってみたくなり社員のみんなと

東京観光に行こうか?などと話しをし、私の思い出の地巡りなど。。。
楽しいはずもなく⤵ww

しっかりすぎるほど観光地な所に行くことになりました。

そうですスカイツリーと浅草、浅草寺で~~す!(^^)/

写真を載せなくても、だいたいどんな写真か想像ついてしまうかもしれませんね・・・
スカイツリー的な写真1
スカイツリーは前にも行ったのですが数年前に東京に大雪が降った時で

電車が止まり帰れなくなくなるかもしれない可能性が出てきたので

逃げるように退散した思い出しかなく。。。

今回は無事のぼることが出来ました!以上!m(__)m
スカイツリー的な写真2
浅草寺はめちゃめちゃ混んでいてあまりにも人が多いのでササッと終わらせて
浅草寺は大きいですね~
すぐお隣にある浅草神社というマイナーな神社でゆっくりと御挨拶させてもらいました。
すぐ隣の浅草神社、地味です^^;
浅草寺ではなく、あえて浅草神社でおみくじを買い記念撮影をする社員さんたち

反骨精神なんだろうか?。。。たのもしく、剛強な意思が感じ取れました^^;
狛犬マニアの私から見ても 凛々しい狛犬でした
最後にスカイツリーから見つけたのですがビルの屋上に建物名が書いてあり

そんな建物が沢山あったので広告的な目的で出しているのかなと思ったのですが

当然スカイツリーから見えるように?作っているはずです。。。
こんな感じで普通にアピール
字の向き?が逆な小学校があり、奇をてらい狙ったものだとしたら相当の曲者

しかし小学校ですからね~~あのようなひねりの効いたアピールは不必要かと(-_-;)

大成功だったのか?それとも「アッ、間違えたッ、まあいいや・・・」なのか
狙っていたとすると凄い感性ですね^^;
※ 屋上文字で検索すると東京のような大都市では大震災などの巨大災害時に
  ヘリコプターで災害救助等の作業に当たるときの目印として公共施設などの屋上に
  建物名を記載しているらしいのですが、スカイツリー周辺はスカイツリーからの
  目線に合わせた広告目的がほとんどらしいのです・・・
  そうなると「民間企業は広告目的だが~私どもは公共施設であるので~
  スカイツリーからの目線は関係ないのでありますッ!!」とでも言ってくれると
  あ~でもない、こ~でもないと考えた時間の甲斐もあるでしょうかm(__)m

あの小学校の屋上文字が最も私の心を掴んだ今回の東京観光でした(;^ω^)

グリーンペイント寺沢です

武田神社で思った以上に時間を使い日帰り予定なので帰りの移動時間3時間と
それから温泉に入ってほうとうを食べる時間も必要となるので~^^;
あと一か所ぐらいしか行けないな。。。
目的地に到着してから腰を据えての回想タイムが始まると長いんですよね

山梨歴史観光であるならば~~武田氏終焉の地天目山か?
それとも心頭滅却すれば火もまた涼しの恵林寺か?
迷いますが大好きな武田氏が集団自害した悲しい天目山は気が進まない。。。
それならばと恵林寺に決定であります。※恵林寺もけっこう悲しい内容ですが。。。
このお寺は織田家により1582年に焼き討ちにあって焼失
その後、徳川家康公により再建された建物なのですが再建から数えても数百年の歴史
寺院敷地内にはとても立派な庭園があり歴史を感じます。
立派な庭園でした
寺院内にはうぐいす廊下なるものがあり、簡潔に説明すると床の鳴る廊下です(^O^)/
その廊下はちょっと薄暗く何やら位牌?のようなものが壁に祀られていて
早めに通り抜けたい気分にさせてくれるのですが、素早く動くと鳴くんですよ床が
ギイ~~キィ~~と、シチュエーションが不気味さを増幅させてくれます。
うぐいす廊下の入口です
写真を撮っていいのかわからなかったので撮らなかったのですが
武田不動と呼ばれる不動明王像があり、信玄公の髪の毛を漆に混ぜ
塗りこんであるそうで、その青い色彩と共に信玄公の
強い念が込められているように感じられ、ちょっと恐ろしげな雰囲気

寺院内も見終わり、いよいよ本題の恵林寺で最も有名な山門を探します
織田信長公の長男、織田信忠公が最終的な武田討伐を行う為
甲斐の国に進攻、戦国最強といわれた武田軍も裏切り、離反が多発し
見る見るうちに攻め込まれ最後は甲府の東、天目山まで追い詰められて
女子供に至るまで武田勝頼公と共に自害し果てたといわれています。
また、武田勝頼公の天目山自害は有名ですが実はそこで150年以上前に
武田勝頼公の祖先にあたる武田信満公も同じ場所で自害し滅亡
武田氏は2度も天目山=木賊山(※同じ山)にて滅亡していたそうです。

合戦が終わったあとは必ず落ち武者狩りが始まるのですが
この恵林寺では落ち武者をかくまってくれる?
戦国時代の仏教系寺院ではよくあることで神仏のご加護により
いかに有力な戦国大名でも勝手に踏み入れられない聖域?とでもいうか
そのような当時の常識があり、かくまうに見合う条件がそろった落ち武者
かくまってくれるのですが、相手はあの天台宗総本山の比叡山
一山を焼き討ちにしてしまう第六天魔王を自称する織田信長公の軍勢です。
ここが快川和尚の山門を復旧したものです
無慈悲と思われがちな織田信長公ですが、史実をあさると思慮深いことが多く
比叡山焼き討ちの際も織田への反抗勢力を武力援助する比叡山へ
宗教家は宗教をするべきで、本業ではない戦への介入を辞めるよう
再三にわたり通告をしていたが相手方が従わないので
それならば敵国とみなし攻撃を開始するという流れだったようで
けして宣戦布告もなしでいきなりの無慈悲な奇襲攻撃を行ってはいなかったようです。

そのような経緯から落ち武者を引き渡すよう恵林寺側へ警告したそうですが
その警告を無視した結果、入口山門にたてこもったまま下から火をかけられ
焼き討ちにあったそうです。
筋道を立てれば殺生もやむなしという考え方には到底同意は出来ず
因果の理法にかない、害を与えるものもいずれそのようになっていくものなのかと。。。
事件の詳細
その際に快川和尚が「心頭滅却すれば火もまた涼し※省略版」との名言を
言い放ったそうです。※事件後に付け加えられた等の説もありますが
この焼き討ちで大勢の人が亡くなったそうで、戦国史に載るような場所は大抵
悲惨な事件が起きたところが多く、苛烈なその当時を想うとこのような平和な時代に
生まれたことを改めて見直し得ます。
静かな夕暮れ
織田家は武田家を1582年3月に滅亡させ同年1582年6月に
本能寺の変がおき、その後なし崩しに織田家も滅びていきます。

何やら毎回ではありますが戦国歴史に限らず
飛ぶ鳥を落とすごとく盛んなる者、国、企業いずれも等しく
同じ道をたどり、祇園精舎の~鐘の~声~♪、の平家物語が思い出されます。
盛者必衰の理をあらわす、奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ・・・

大昔から繰り返されていて織田氏も武田氏も知っていた
平家と源氏の物語りと、遠く思えるものなのか
3傑の最後を務めた家康公はどのように見ていたのか気になります

しかし、いざ自分事となると回避することは難しいものなのですね。。。
世は無常なり・・・とならないよう生活も仕事も悔いのないようにしたいものだ
と、考えさせられる山梨歴史探索のたびでした^^
山梨は四方を山に囲まれた盆地です

グリーンペイント寺沢です。

またまた仕事と違う話でありますが山梨県へ行ってきました!
※関東は観光で行っている訳ではありませんよ、仕事なんですよ!・・・念のため^^;
実は、去年も行ったのですが毎年でも行きたい武田の里、山梨県。
横浜からだと高速使って3時間くらいかかるでしょうか
札幌から山梨に行くなどといったらそりゃ~~えらい時間かかりますからね(;^ω^)
早朝からウキウキしながらドライブ、楽しいことは時間があっという間です!
中央道を走り山を越え「トンネルを抜けるとそこは山梨であった。。。」

歴史好きであるなら甲府に到着しだい戦国大名、武田氏の拠点、躑躅ヶ崎館こと
現在の武田神社へ挨拶に伺いたいところでありますね。
現在の入口、信玄公の時代は向かって右側に正面門がありました
神社正面入り口の前に立ち、まずは一礼。。。心の中でです
歴史マニアが多いとしても、本当に一礼してしまうと浮いちゃいますね💦

さあ~境内に入場する前、いつもの空想タイムが始まります^^;
今から450年前にここを山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂弾正・・・
あえて高坂昌信は弾正と呼びたい、弾正とは当時の警察的機構に関係する意味、称号で
松永弾正や織田弾正忠など戦国ならではなカッコイイ呼び名で特に大好きですね!

武田四天王がここを通ったのか~~
山県昌景の赤備え、武田菱の軍旗がたなびき戦国最強の武田騎馬軍団が~
出陣の時なんて甲冑姿で~こんな感じで~これぐらいの歩幅かな~
当時を想いながら入口の橋を行ったり来たり
変な人に見えたかもしれませんが、史跡巡り中は有りということで(^o^)丿
とても幸せな時間です。
※現在の武田神社入口は戦国時代の正門入口とは違うそうで当時は
  現在入口の右手にあったそうです。
神社が見えてきました
しかしながら躑躅ヶ崎館は平城?といってよいのか水堀、空堀はあるのですが
一般的にイメージするような城郭がありません、戦国時代も館しかなかったそうで
武田家の方針だったのか、武田信玄公の有名な名言「人は城、人は石垣、人は堀」
この言葉にすべて表れているのでしょうか?
しかし戦国最強とうたわれた武田家の強さの秘訣である金山も埋蔵量に陰りが見え
織田、徳川連合軍と長篠の合戦後は急速に力が衰えて、ここ躑躅ヶ崎館は
城郭がない事が本土防衛には不向きとされ急遽、新府城を築城することになりました
信玄公時代は豊富な金にものを言わせイケイケドンドンのノリで快進撃をしていましたが
跡継ぎ勝頼公の時代にはそのようなわけにもいかず厳しい戦いを強いられます
戦国史の中で「おおうつけ」「信玄の愚息」「武田の恥」等々散々な言われ方をしている
勝頼公ですが、あまりにも不憫です。
金山からの採掘量も減り資金面もかつてのようにはいかず
「信玄公の言うことしか聞かん」という態度のほとんど豪族?のような家臣団
もの凄い力を付けたライバル信長、家康公に囲まれ
この状況下では誰であっても滅亡したのではないか?
と思える不利な状況でも勝頼公は一生懸命に戦ったのではないかと思います。
諏訪勝頼「甲府のものではない諏訪の侵略者め!」と罵られながらも・・・
生まれた時と場所が不運だったとしか言いようがありません。
躑躅ヶ崎館全体図
本殿や記念館?はさらっと見た程度でしたが敷地内散歩は面白く
特に西曲輪のあたりは空堀がめぐらされ
往時を思わせる遺構が随所に観られました。
信玄公時代の西曲輪
西曲輪入口、夫人や姫の館があったそう
さらに神社内を散策していると敷地内の清掃業務をしているおじさんと仲良くなり
即席の観光案内をしてもらえることになり色々なお話を聞くことが出来ました。
武田信玄公は躑躅ヶ崎館の敷地内に日本各地から取り寄せた植物を植えて
巨大な庭園風にしていたそうで山梨県には自生していない木も多いらしく
信玄公とガーデニング?の組み合わせはちょっと意外でした。
武田神社の名水、姫の井戸!




グリーンペイント 寺沢です


11月から始まった関東での仕事もひとだんらくして・・・⇒ 一段落!?
※またまた始まりますが^^;「いや~難しい仕事も何とか片が付きひとだんらくしたよ」
  ひとだんらくだと思っていたのですがいちだんらくが正解なようで
  「いや~難しい仕事も何とか片が付いたのでここらで一区切りとしようか」の
  ひとくぎりの「ひと」と読むのがひとだんらくにあてがわれたようで
  日本語って本当にむつかしい~ですね!・・・
  むつかしいとむずかしいとは~~~m(__)m

正月には札幌へ帰るのですが当然のように寒いです札幌の冬^^

いつもお世話になっている地元屯田の江南神社へご挨拶に行ってきました。
静かです
夜だったこともあるのですが寒い!どんどん寒がりになる自分の体が恐ろしい。。。

手水舎の水が凍っているじゃあないですかッ!・・・って当然ですよね^^;
つららが出来てる
正月をずらして参拝したので我が家以外に人がいません

し~~んとしていて本殿の明かりが暗闇に浮かび幻想的で見入ってしまいます。

じっくり見たかったのですがなにせ寒いッ!ので手短ではありましたが

「去年は平穏無事にお仕事させていただきありがとうございます」
ガラガラガラですね
ガラガラガラ、チャリ~ン、パンパン※儀礼は大切ですね~

今年も仕事頑張ろ~~!
静かな静かな江南神社でした

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