グリーンペイント寺沢です
武田神社で思った以上に時間を使い日帰り予定なので帰りの移動時間3時間と
それから温泉に入ってほうとうを食べる時間も必要となるので~^^;
あと一か所ぐらいしか行けないな。。。
目的地に到着してから腰を据えての回想タイムが始まると長いんですよね
山梨歴史観光であるならば~~武田氏終焉の地天目山か?
それとも心頭滅却すれば火もまた涼しの恵林寺か?
迷いますが大好きな武田氏が集団自害した悲しい天目山は気が進まない。。。
それならばと恵林寺に決定であります。※恵林寺もけっこう悲しい内容ですが。。。
このお寺は織田家により1582年に焼き討ちにあって焼失
その後、徳川家康公により再建された建物なのですが再建から数えても数百年の歴史
寺院敷地内にはとても立派な庭園があり歴史を感じます。

寺院内にはうぐいす廊下なるものがあり、簡潔に説明すると床の鳴る廊下です(^O^)/
その廊下はちょっと薄暗く何やら位牌?のようなものが壁に祀られていて
早めに通り抜けたい気分にさせてくれるのですが、素早く動くと鳴くんですよ床が
ギイ~~キィ~~と、シチュエーションが不気味さを増幅させてくれます。

写真を撮っていいのかわからなかったので撮らなかったのですが
武田不動と呼ばれる不動明王像があり、信玄公の髪の毛を漆に混ぜ
塗りこんであるそうで、その青い色彩と共に信玄公の
強い念が込められているように感じられ、ちょっと恐ろしげな雰囲気
寺院内も見終わり、いよいよ本題の恵林寺で最も有名な山門を探します
織田信長公の長男、織田信忠公が最終的な武田討伐を行う為
甲斐の国に進攻、戦国最強といわれた武田軍も裏切り、離反が多発し
見る見るうちに攻め込まれ最後は甲府の東、天目山まで追い詰められて
女子供に至るまで武田勝頼公と共に自害し果てたといわれています。
また、武田勝頼公の天目山自害は有名ですが実はそこで150年以上前に
武田勝頼公の祖先にあたる武田信満公も同じ場所で自害し滅亡
武田氏は2度も天目山=木賊山(※同じ山)にて滅亡していたそうです。
合戦が終わったあとは必ず落ち武者狩りが始まるのですが
この恵林寺では落ち武者をかくまってくれる?
戦国時代の仏教系寺院ではよくあることで神仏のご加護により
いかに有力な戦国大名でも勝手に踏み入れられない聖域?とでもいうか
そのような当時の常識があり、かくまうに見合う条件がそろった落ち武者を
かくまってくれるのですが、相手はあの天台宗総本山の比叡山
一山を焼き討ちにしてしまう第六天魔王を自称する織田信長公の軍勢です。

無慈悲と思われがちな織田信長公ですが、史実をあさると思慮深いことが多く
比叡山焼き討ちの際も織田への反抗勢力を武力援助する比叡山へ
宗教家は宗教をするべきで、本業ではない戦への介入を辞めるよう
再三にわたり通告をしていたが相手方が従わないので
それならば敵国とみなし攻撃を開始するという流れだったようで
けして宣戦布告もなしでいきなりの無慈悲な奇襲攻撃を行ってはいなかったようです。
そのような経緯から落ち武者を引き渡すよう恵林寺側へ警告したそうですが
その警告を無視した結果、入口山門にたてこもったまま下から火をかけられ
焼き討ちにあったそうです。
筋道を立てれば殺生もやむなしという考え方には到底同意は出来ず
因果の理法にかない、害を与えるものもいずれそのようになっていくものなのかと。。。

その際に快川和尚が「心頭滅却すれば火もまた涼し※省略版」との名言を
言い放ったそうです。※事件後に付け加えられた等の説もありますが
この焼き討ちで大勢の人が亡くなったそうで、戦国史に載るような場所は大抵
悲惨な事件が起きたところが多く、苛烈なその当時を想うとこのような平和な時代に
生まれたことを改めて見直し得ます。

織田家は武田家を1582年3月に滅亡させ同年1582年6月に
本能寺の変がおき、その後なし崩しに織田家も滅びていきます。
何やら毎回ではありますが戦国歴史に限らず
飛ぶ鳥を落とすごとく盛んなる者、国、企業いずれも等しく
同じ道をたどり、祇園精舎の~鐘の~声~♪、の平家物語が思い出されます。
盛者必衰の理をあらわす、奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ・・・
大昔から繰り返されていて織田氏も武田氏も知っていた
平家と源氏の物語りと、遠く思えるものなのか
3傑の最後を務めた家康公はどのように見ていたのか気になります
しかし、いざ自分事となると回避することは難しいものなのですね。。。
世は無常なり・・・とならないよう生活も仕事も悔いのないようにしたいものだ
と、考えさせられる山梨歴史探索のたびでした^^

武田神社で思った以上に時間を使い日帰り予定なので帰りの移動時間3時間と
それから温泉に入ってほうとうを食べる時間も必要となるので~^^;
あと一か所ぐらいしか行けないな。。。
目的地に到着してから腰を据えての回想タイムが始まると長いんですよね
山梨歴史観光であるならば~~武田氏終焉の地天目山か?
それとも心頭滅却すれば火もまた涼しの恵林寺か?
迷いますが大好きな武田氏が集団自害した悲しい天目山は気が進まない。。。
それならばと恵林寺に決定であります。※恵林寺もけっこう悲しい内容ですが。。。
このお寺は織田家により1582年に焼き討ちにあって焼失
その後、徳川家康公により再建された建物なのですが再建から数えても数百年の歴史
寺院敷地内にはとても立派な庭園があり歴史を感じます。

寺院内にはうぐいす廊下なるものがあり、簡潔に説明すると床の鳴る廊下です(^O^)/
その廊下はちょっと薄暗く何やら位牌?のようなものが壁に祀られていて
早めに通り抜けたい気分にさせてくれるのですが、素早く動くと鳴くんですよ床が
ギイ~~キィ~~と、シチュエーションが不気味さを増幅させてくれます。

写真を撮っていいのかわからなかったので撮らなかったのですが
武田不動と呼ばれる不動明王像があり、信玄公の髪の毛を漆に混ぜ
塗りこんであるそうで、その青い色彩と共に信玄公の
強い念が込められているように感じられ、ちょっと恐ろしげな雰囲気
寺院内も見終わり、いよいよ本題の恵林寺で最も有名な山門を探します
織田信長公の長男、織田信忠公が最終的な武田討伐を行う為
甲斐の国に進攻、戦国最強といわれた武田軍も裏切り、離反が多発し
見る見るうちに攻め込まれ最後は甲府の東、天目山まで追い詰められて
女子供に至るまで武田勝頼公と共に自害し果てたといわれています。
また、武田勝頼公の天目山自害は有名ですが実はそこで150年以上前に
武田勝頼公の祖先にあたる武田信満公も同じ場所で自害し滅亡
武田氏は2度も天目山=木賊山(※同じ山)にて滅亡していたそうです。
合戦が終わったあとは必ず落ち武者狩りが始まるのですが
この恵林寺では落ち武者をかくまってくれる?
戦国時代の仏教系寺院ではよくあることで神仏のご加護により
いかに有力な戦国大名でも勝手に踏み入れられない聖域?とでもいうか
そのような当時の常識があり、かくまうに見合う条件がそろった落ち武者を
かくまってくれるのですが、相手はあの天台宗総本山の比叡山
一山を焼き討ちにしてしまう第六天魔王を自称する織田信長公の軍勢です。

無慈悲と思われがちな織田信長公ですが、史実をあさると思慮深いことが多く
比叡山焼き討ちの際も織田への反抗勢力を武力援助する比叡山へ
宗教家は宗教をするべきで、本業ではない戦への介入を辞めるよう
再三にわたり通告をしていたが相手方が従わないので
それならば敵国とみなし攻撃を開始するという流れだったようで
けして宣戦布告もなしでいきなりの無慈悲な奇襲攻撃を行ってはいなかったようです。
そのような経緯から落ち武者を引き渡すよう恵林寺側へ警告したそうですが
その警告を無視した結果、入口山門にたてこもったまま下から火をかけられ
焼き討ちにあったそうです。
筋道を立てれば殺生もやむなしという考え方には到底同意は出来ず
因果の理法にかない、害を与えるものもいずれそのようになっていくものなのかと。。。

その際に快川和尚が「心頭滅却すれば火もまた涼し※省略版」との名言を
言い放ったそうです。※事件後に付け加えられた等の説もありますが
この焼き討ちで大勢の人が亡くなったそうで、戦国史に載るような場所は大抵
悲惨な事件が起きたところが多く、苛烈なその当時を想うとこのような平和な時代に
生まれたことを改めて見直し得ます。

織田家は武田家を1582年3月に滅亡させ同年1582年6月に
本能寺の変がおき、その後なし崩しに織田家も滅びていきます。
何やら毎回ではありますが戦国歴史に限らず
飛ぶ鳥を落とすごとく盛んなる者、国、企業いずれも等しく
同じ道をたどり、祇園精舎の~鐘の~声~♪、の平家物語が思い出されます。
盛者必衰の理をあらわす、奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ・・・
大昔から繰り返されていて織田氏も武田氏も知っていた
平家と源氏の物語りと、遠く思えるものなのか
3傑の最後を務めた家康公はどのように見ていたのか気になります
しかし、いざ自分事となると回避することは難しいものなのですね。。。
世は無常なり・・・とならないよう生活も仕事も悔いのないようにしたいものだ
と、考えさせられる山梨歴史探索のたびでした^^

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